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OBからのメッセージ No.19

  • 機械工学科
卒業年度:1975年(S50年)

  • 機械工学科
卒業年度:1975年(S50年)

表題

  • 海外での思い出と今昔四方山話: モスクワ編

2023/3/12

 

1983年11月下旬、小生29歳の時に成田から西ドイツに向けて出発しました。技術提携先RB社の自動車用ABSの製造手法を学んで国内生産に活かすプロジェクトにアサインされた次第。1975年(昭和50年)に自動車用ブレーキ部品メーカーに入社以来、生産技術者として縁の下の力持ちとして全然目立たぬ地味~な仕事に明け暮れていた頃の初めての海外出張。

「ヤッター、ついに華やかな檜舞台に立つのだ!」と普通はワクワクするはずですが、内心はそうでもありませんでした。と言うのも航路はソ連上空を飛行する北回り、『樺太上空を飛行した大韓航空機をソ連が撃墜し、旅客&搭乗員の全員が亡くなった事件』から僅か2か月半後のことでしたから。

 

日本から西ドイツのフランクフルトに向かう途中で立ち寄ったモスクワでの事です。

当時のジェット旅客機は地球半周も出来ないような機体。米ソが冷戦中なが乍らも緊張が薄らいだ時期にソ連上空の飛行を許可されましたが、フランクフルトへ向かう途中モスクワ空港で給油が必要でした。

やがてモスクワ空港に到着しタラップを降りロビーへ向けて歩き始めた時のこと。20m先がぼんやりとしか見えない程に雪が降りしきる中、歩く乗客の行列に向けてソ連軍の兵士達が両側から銃口を向けているのに気が付きました。不審な動きをしたら容赦なく発砲する構えです。

ロビーまでの100mほどの間に全部で10名程がいました。銃口を向けられたのは生まれて初めて。万が一の場合を考えたらそりゃ恐ろしく、寒さ以上の鳥肌が立ったのでした。

 

日本では戦争が終わって38年、より平和で豊かになろうとする日々が続いていたと思っておりましたが、ここでは今なおいつ何時でも臨戦態勢でした。

私事ながら「私には1歳半の長女がいる。その養育の為に稼がなきゃならないし、今回のプロジェクトでは日本でABSの生産を立ち上げなきゃならない!ここで死ぬわけにはいかない!」ので、周囲の人の行動に合わせて極力目立たないようにして我が身の安全第一を目指しました。

 

薄暗いロビーで小一時間待ったあと再び搭乗するときに金属探知機で検査されました。腕時計、小銭入れ、ベルトの金具、ネクタイピン、身に着けている金属は全て探知され、残りはズボンのファスナーだけになりました。武器など携行するはずもない旅行者であろうとも以前の空港で検査された乗り継ぎ客であろうとも容赦せんぞ!それほどまでに警戒をしていたのです。「これを探知されて外せというならズボンを脱ぐしかない。そこは金が含まれる貴金属があるよ。それは取り外しは叶わぬものであるから許してたもれ」とか云う冗談は通じるはずもない状況。まぁ、スンでのところでやっと搭乗を許可されました。

話はそ逸れて1971年(昭和46年)に遡りますが、学生時代にアルバイトさせてもらった土建屋の社長がソ連の非情さ・冷酷さ及び戦の悲しさを話してくれた事を思い出しました。

 

米国との終戦直後、引揚げに遅れた日本人を見付けては捉えた。女性は辛く悲しい運命に、男にはシベリア鉄道建設等の力仕事を強制した。苦しかった、悔しかった!そんな中でも捕虜の仲間同士でくつろ寛ぐのは束の間の楽しみだったそうです。そこでたまたま雪の大食い競争が始まった。周囲に積もった雪を洗面器として支給されていたかな金だらい盥に詰めて誰が一番たくさん食べれるか? 何も考えずただひたすら食べ続け、4杯食べた!

さてさて翌朝から超過激な下痢が始まり(注釈1)、それが三日続いた。ソ連兵がやって来て「お前は今すぐ帰国しろ」と命令されたのだそう。ソ連軍は訳の分からない感染症の始まりだと用心したらしい。本人は黙って指示に従ったお陰で一脚早く帰国できたそうです。そのほかに帰国を許された人たちの中には、船旅で憧れの母国・本土が見え始めたら身投げする女性(懐妊したり病に罹ったりした方々)が居たそうです。理由は里帰りしても辱めを受けたことなど知られたくないためで、死しか選べない苦渋の決断だったようです。

帰国したらあちこち空襲を受けて、家々が方々で沢山破壊されていた。そこで社長は、それらを復興してやろうと土建業を始めたとの事でした。

 

ところでソ連は日本が米国に降伏した直後に両国の「日ソ中立条約」を破棄して南樺太と北方4島へ侵略して占領し、その後はその周辺で漁をする「日本人」を何度もだほ拿捕している国です。盗人猛々しい国ですが日本は敗戦国なので何もできません。増してや憲法第九条が今では足かせとなっています。

米国が沖縄を占領・統治した後に返還してくれたのとは大違い。

因みに昭和49年、大阪の大学へ学びに来ていた沖縄出身の女子学生とバイト先で顔見知りになったことがありますが、彼女は「沖縄が米国に統治されていた1972年(昭和47年)以前に、米国のパスポートを持って日本へ海外留学」していたとの事でした。占領されるということは元の領土の間でも行き来が自由に出来なくなる、自国ではなくなるということなのです。

 

2014年にウクライナのクリミア半島をロシアが占領しました。昨年2022年には東側から侵略して来たのをウクライナは徹底抗戦しながら自国の領地を取り戻そうとしています。

追い出すべき敵は自国領土と領民の間に紛れているので撃退するのは困難が付きまとうもの。痛し痒しですが、勝てば官軍!負ければ地獄、ウクライナは何としても負けるわけにはいかない。

因みにドイツ国は第一次大戦の賠償金を92年後の2010年、やっと払い終えたそうです。敗戦国の賠償とはそれほどに過酷なようです。

中近東の国々の中には文字に書き留められた有史以来から今日までず~っと戦闘が続いている国があるそうです。

怖いものと言えば「地震・雷・火事・親父」台風でさえ二三日で通過するから、その間を辛抱すればよい。嫌なことや忘年会ですべてを忘れようとしている日本人には理解し難い状況でしょうが、海外渡航する際にはこのような国々があることに留意して措くのが良いかと思います。

 

(注釈1:) アメリカには”Montezuma’s Revenge “(= モンテズーマ大王の復讐)と呼ばれる諺があるそうで、メキシコに旅行すると強烈な下痢に罹るそうです。その国の格言・ことわざ 諺 の辞書に依れば「スペインが200名ほどの兵隊で侵略して来た時にメキシコはコロッと負けてしまったそうで、その悔しさから当時の統治者モンテズーマ大王が『未来永劫うら恨んで仕返しをしてやるぞ』と死に際に誓った」そうです。呪いは今でも健在です。外国に訪れる際にその地のバクテリアで羅患する危険をご承知措き下さい。

 



運営からのコメント

若い頃に立ち寄ったモスクワでの出来事や、日本が大戦直後に味わった悔しさなどの話を思い出しながら、戦争の怖さ過酷さなどに想いを馳せています。 映画の1シーンを思わせる表現もあり、心に響きます。ぜひご一読ください。
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