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OBからのメッセージ No.25

  • 第15期 電気工学科
卒業年度:1981年(S56年)

  • 第15期 電気工学科
卒業年度:1981年(S56年)

表題

  • ながいながい40年、あっというまの40年

2023/07/07

 

愛媛県西条市生まれで、新居浜高専に入学したのは1976年。早生まれなので20歳になってすぐに卒業。運良く四国電力に就職できたはいいけれど3年で退社しました。写真の学校に行くために上京したのは23歳の時。綾小路きみまろ風にいうなら、「あれから40年、これから40年、あっちもこっちも、そっちもどっちも、中高年、あなたも私も中高年~」が現実になってしまいました。

 

小中学校からの同級生は、あたりまえですが同年齢で、いったん定年を迎えて再雇用で働いていたり、人手不足の影響で再雇用から本雇用に戻ったり、「もう仕事はうんざり、趣味に生きる」とばかり株と年金の生活に入った者もいます。みなばらばらに、愛媛、広島、滋賀、バングラディシュ、神奈川(私)にいて、月1くらいでzoom飲み会をやっているのですが、話題はおもに加齢による体調不良と親の介護のこと。共通する話題といえば、病気自慢しかなくなるのですよね。

 

当時の新居浜高専は全寮制で、寮に引っ越した翌日の消灯後、竹刀を片手に持った「風紀委員」に一斉に部屋から出され、廊下に正座させられて点呼をするという洗礼を受けたことを強く覚えています。「先輩の顔を見るな」「廊下ですれ違う時は挨拶をしろ」「いつもニヤニヤするな」とか、ほとんど力ずくで教えられたのです。もしかしたらこれ、今ではハラスメントになるのかもしれません。そうそう、昔の話なので許してもらいたいところですが、たばこや酒の味を覚えたのもこの頃です。むろんこれは、昔も今もコンプライアンスに反します。

 

四国電力に入社した当時は一生安泰の優良企業といわれていましたが、電力自由化、送配電分離、燃料価格高騰、再エネ、原発など、ありとあらゆる難題が立ちはだかっています。それでも大手であることに代わりはないですが、しかし高度成長期や入社当時に比べるなら、決してバラ色の未来があるわけではありません。

 

実は、学生だった頃(1978年に第二次オイルショック)から エネルギー問題には関心があって、3年目の異動で伊方原発を希望していたのです。が、あにはからんや関連会社出向を命じられました。ま、このことと退社はあんまり関係がないし、「写真の道に進む」というのも口実に近くて、とにかくは人生をリセットする覚悟で上京したのです。もし、伊方への異動が決まっていたら、私の人生はまったく変わっていたかもしれません。というよりも、311で福島の原発があのようになってしまい、伊方に行かなくてよかったなぁ、と思う気持ちの方が強くなっているのが正直なところです。

 

上京した1980年の中ころはバブル経済の賭場口だったわけですが、この40年で四国を含め日本の風景は目まぐるしく変わりました。当時はまだにぎやかだった西条市の商店街のアーケードはシャッター街になりました。瀬戸大橋(1988年開通)もまだできておらず、西条から東京までは国鉄(1987年にJRに)で乗り換えが悪いと10時間もかかっていましたが、宇高連絡船のデッキで食べる讃岐うどんはおいしかった。今は岡山で一回乗り換えるだけで西条まで6時間くらいで着くようになりましたが、空調の効いた箱の中で運搬されているような味気なさがないわけではありません。

 

写真学校に入った頃は、四畳半一間、家賃12,000円のボロアパートで、家賃は滞納するし、お金はまったくなかったけれど、学校の歳違いの友人やアパートにいる人たちとも仲良く酒を交わしながら結構楽しくやっていたのです。

 

写真の仕事でいうと、企業メセナなんかで文化的な予算は余るほどあったようで、その末端のおこぼれ的な仕事がたくさんありました。1980 年後半には、川崎市民ミュージアム、東京写真美術館など、写真を中心にコレクションする美術館が林立しました。「写真」は文化的にも経済的にも新しい投資先であったのです。いくつかの老舗以外に、新しい写真ギャラリーもたくさんできました。写真の雑誌もどんどん新しいのが出版され、善し悪しは抜きに、にぎやかで活気がありました。

 

そして今、写真のギャラリーはほとんどなくなりました。写真の美術館で開催する企画といえば、いまだに昭和、それも戦後~高度成長期までの写真家がメイン。それらはまるで昭和のまま、時間が止まっているかのよう。ま、これは日本全体の保守的な方面には共通していえることですけれど。写真関連の美術館など、ほとんど不良債権化しているのではないか、というのが私の率直な感想です。

 

ご存じの方もいるかもしれませんが、趣味の写真の雑誌「アサヒカメラ(1926年創刊)」は2020年に、「日本カメラ(1950年創刊)」は2021年に休刊しました。休刊とは名ばかりで、実質廃刊。日本カメラは会社ごと清算されました。実は、日本カメラは20年以上にわたって連載などの仕事をやらせていただき、いくつかの単行本の出版にも繋がった雑誌でしたので、かなりの思い入れはあるのです。それももう昔日の面影を追うような話になってしまいました。

 

単純にいうなら、インターネットとスマホによって「写真」のあり方が変わった、というだけのことでしょう。時代の変化についていけなかった。というよりも、時代がこうなってしまった以上、紙媒体が続いていける余地はなくなったのです。こうした意味では悪あがきせず、さっさと会社を畳んだ日本カメラ社の引き際は美しいし、社長の判断は適切、だったと思います。

 

ここでちょっとカメラメーカーの話。40年前にはこの世の誰一人として想像すらしていなかったことでしょうが、20年前の2003年にミノルタがコニカの子会社になって、コニカミノルタができました。しかしその3年後には、この会社自体がカメラ事業から撤退。写真界の巨人Kodakは2012年に経営破綻。オリンパスも2020年にカメラ事業から撤退しています。コニカミノルタからブランド 「α(アルファ)」を引き継いだSONYは動画業界を席巻して比較的堅調ですが、ニコンとキヤノンのカメラ事業は決して順調ではないようです。ここ数年は、パナソニックもカメラ事業からの撤退を噂されています。

 

驚くべき数字を一つ。日本におけるデジタルカメラの出荷台数は2011年の1億2000万台を ピークに、2022年には800万台にまで縮小しています。10年ちょっとで、たったの7%。 誰もが体験している通り、人が撮影する写真のカット数は鰻登りなのに、です。つまるところ、すべてスマホに取って代わられた次第。また現在のカメラメーカーは静止画ではなく、動画に活路を見いだしているのです。

 

とまあ、私自身も同期の友人も会社も写真も、この40年で変わってしまいました。おそらく、これから先の40年は、これまでの40年よりももっと大きな変化が待ち構えていることでしょう。しかし真に恐るべきことは、次の40年先は「私にはない」という現実です。

 

なので今、とりわけ若い人たちの未来が明るくなることだけを切に祈っているのです。とはいうものの、私が若かった40年前とはまったく状況が異なる現在を思うにつけ、さあて、どのような道があるのか、どの道を進めばよいのかと、思案に明け暮れるしかない毎日です。20歳から40年経って60歳を過ぎ、当時よりは少し世の中の仕組みがわかってきたと思える反面、時代の変化についていけなくなりつつある自分を自覚します。

 

ただし、決していいことばかりではなかった記憶もまだ鮮烈なので、決して若い頃に戻りたいとは思いませんが。 

 

挿絵写真/物持ちがよいように見えるのは、まだ「実家」があるからです。

国領祭のパンフレットの内容は下記URLからご覧いただけます。

https://chiiden.net/samples/kokuryousai75/

https://chiiden.net/samples/kokuryousai76/



運営からのコメント

きびしい寮生活で鍛えられ、優良企業に就職したけれど、いろいろあってリセットする覚悟で上京し写真の道に。 時代の波、写真業界の波の中で、さてこれからどうしたものかと思考錯誤しているOBのエッセイです。ぜひご一読ください。
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