OBからのメッセージ No.37
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二神 得明卒業年度:1969年(S44年)
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二神 得明卒業年度:1969年(S44年)
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表題
- 海外赴任四方山話:-20℃の「雪かき」から初出勤
2024/9/20
1987 年12月、シカゴは厳冬で日中の最高気温でも氷点下が当たり前の世界、深夜は-20℃、想像を絶する凍土が広がっていました。シカゴオヘア空港に到着したA社群馬工場からの先発隊は余りの寒さにただたじろぐばかりでした。 案の定、翌日は大雪、ホテルでスコップを借りて雪かき、やっとの思いで工場にたどり着いたものの会社はクローズ、大変なところに来たものだと同行者共々異口同音。米国の12月といえばクリスマスの飾りが豪華絢爛、どの家も屋根や窓及び玄関ドアは色鮮やかな電飾で輝いていました。
アパートが見つかるまではホテル住まいが続いていました。この時期は真珠湾攻撃記念日(ハワイで始まった太平洋戦争)もあり、銃規制の甘い米国内での外出・観光等を慎むよう上司から言われていました。現地では、まずは車調達が最優先、米国免許取得までは国際免許、特に日本との違いは道路右側走行なので慣れるまで随分苦労したものです。
現地生産に向けて、国内では群馬工場内に『周囲を塀で隔離したアメリカ村』を作り、現地体制、トラブルを想定してのシステム生産シミュレーションを行いました。昼食時を除き外部との接触は社内電話とメールのみ、大変厳しいものでした。 海外へはまずは先発隊(部長、経理担当1名、製造担当の私)、その後トレーニング隊(組立担当2人、製造担当3人、検査担当1人)が訪米し、年明けに合流しました。ノックダウン方式なので既にユニットレベルでの材料は到着しており、いよいよシステム生産開始となりました。1台1000Kg以上のシステムを群馬工場と同じエアーパレットに乗せ、工程ごとに移動させていきます。
そもそも米国現地生産開始のきっかけは日米貿易摩擦でした。A社主流製品である半導体製造装置(※注 1)の大半が米国関連企業向けのため 100%関税がかかる品目候補に上がっていたからでした。最終的に米国政府との公聴会でノックダウン方式が現地生産と認められ関税を免れ、当初の目的は達成されました。もちろん米国調達できる架台、システムの心臓部であるコントロールユ二ット等は最終的に米国調達となった次第。
(※注 1):主に自動車やパソコン、現在ではスマホ等に使用する半導体(CPU)の機能を検査する装置。半導体製造工程途中でシリコンウェハに検査針(プローブ)を当接し入力信号や電源を印加しそれに対応した出力信号を検査判定します。シリコンウェハは規模にもよりますが直径 10cm のシリコン板1枚に約100個のチップが形成されています。その小さなチップの内、良品と判定されたチップだけを切出し、パッケージング化(チップを電極端子が付いた基盤に載せワイヤーボンディング手法或いはバンプ接合により端子と電気物理的に接続、その後端子部分のみ露出し全体を絶縁体で密閉)して半導体が出来上がります。この半導体の出荷検査も我社のシステムを使います。
「郷に入らずんば郷に従え」とは言いながらも、まずは品質。生産方式は群馬工場流を通しました。朝礼では毎日工程管理板の前に集まりトラブル報告。緊急性の高い問題は、群馬工場開始時間に合わせて毎晩9時からコンタクト、群馬工場からのサポートを得て翌日のシステムに反映。この早業で米国人技術者達を驚かせたものです。
日頃からユニフォームに馴染まない米国人スタッフも全員作業着に着帽。これは大リーグ野球を例にチームワークの大切さを納得してもらいました。残念ながら朝10 時と午後3時のラジオ体操だけはなかなか理解されず頓挫しました。米国生産第1号機はⅯ社マレーシア向けに無事出荷され日米関連スタッフと祝杯を上げることができました。

そんな多彩な米国人スタッフも我々日本人をよく食事に誘ってくれました。また我々もバーベキューパーティー等に招待、家族ぐるみ片言の英語で交流しました。社長の推奨で米国駐在は全員家族帯同としたものの、高校、中学、小学校の子供達は言葉の通じない環境に飛び込んでどれだけのストレスがあったか計り知れません。しかし子供たちの現地校では通常の授業を受けられるようになるまで特別対応の先生が授業を準備され、米国社会の教育面でのふところの大きさに助けられました。お陰様で子供たちは素晴らしい体験をさせていただき感謝しております。
また私の実家の両親と、時期は1年ずれますが妻の両親も呼び寄せ約1か月シカゴで生活、グランドキャニオンやナイアガラの滝観光等サポートし親孝行のまねごとができました。
システム生産100台出荷したのを機に1994年1月、私は6年間の任務を無事終えて、家族をシカゴに残し逆単身赴任の帰国になりました。
“家族のきずなを大切に”:
長女は既に私の帰任1年前に帰国し前橋の医療短期大学部に帰国子女枠で入学、看護師を目指しました。長男は現地高校卒業まで1年半を残していたので妻と次男の3名がシカゴに残りました。現地で父親代わりを務めた長男は、勉学以外に妻と弟のサポートで大変だったと思いますが、現地S高校を無事卒業して1995年6月に帰国。帰国子女枠でS大学入学出来、建築技師を目指しました。
家族が3ヶ所(前橋、行田、シカゴ)に分かれてばらばらの生活を1年半強いられましたが、会社の辞令には逆らえないのは企業戦士の宿命でしょうか。
1996 年6月シンガポール出向し、その後の4年間は子供達の高校・大学生活を最優先しました。
シンガポール駐在時は米国出向時と同じ英語環境なので、すぐに現地に溶け込めましたが、米国とは異なり銃規制に厳しく、特に入国検査表には赤字で「銃と麻薬の違反者は死刑」の忠告があるほどです。
仕事内容はシンガポール拠点の顧客(米国、EU、マレーシア、台湾、中国、韓国)のバックアップ機材の管理及び円高を背景に海外調達の推進を担当しました。シンガポール(半導体自動搬送機用のアンローダユニット)、マレーシアペナン(計測器スペクトラムアナライザーの心臓部金型加工)、マレーシアジョホールバール(システム配電用ケーブル生産)が拠点でした。各拠点は英語は通じるものの、マレー語、広東語の混じる複雑な社会。加えてイスラム教徒の従業員が多く宗教礼拝の為、金曜午後は男子従業員が殆どいなくなる等への対応に苦労しました。
シンガポールではグリーンビザを取得していましたが、食事や観光・買い物のために隣国マレーシアに出入国する度にパスポートにスタンプ2回、休日にはゴルフでプレー費の安いインドネシアやジョホールバールに行く度にスタンプを押されて頁が足りなくなり、査証12枚増刷のパスポートが分厚くなり過ぎて1年毎に再交付されました。
こんなバラバラの生活環境の中でも今思うと家族孝行をしていたことが救いでした。妻、長女、次男を呼び寄せマレーシア、インドネシア観光をしました。入社25 年記念では2週間の休暇を頂きニュージーランド旅行をしました。
ドラマにでもなりそうですが妻とマレーシア・クアラルンプールで合流、一緒にニュージーランドのオークランドに旅行、人口よりも羊の数の方が多い国ですが日本と同じ地震、火山の多い国でもあります。残念ながら帰りはクアラルンプールで私はシンガポール、妻は成田へ離れ離れになりました。
ここで家族のきずなの大切さを分かち合うことになりました。
2000年6月の帰任時はA社シンガポール支社の人達がチャンギ空港に見送りに来てくれました。私の留守を無難にしていてくれた妻、親父の状況を理解して耐えてくれた子供達に感謝。 現在長女家族は戸田市、長男家族は行田市、次男はまだ独身ですが妻と3人渋川市に在住し、離れて生活してはおりますが、時々孫4人を含め全員11人集合。賑やかなひと時を楽しんでいます。
企業戦士の皆さん、家族が一時的にばらばらな生活をせざるを得ないことが生じたとしてもお互い立場を理解し合う絆で心は必ず1つになると思います。人生耐えることも必要です。めげずに頑張ってください。