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OBからのメッセージ No.50

  • 第13期 金属工学科
卒業年度:1979年(S54年)

  • 第13期 金属工学科
卒業年度:1979年(S54年)

表題

  • 自分らしさへの挑戦(サラリーマンからの脱皮):Part-1後半(30代)

2026年8月12日

13期 金属工学科卒:清水 一雄

 

 私の歩んできた道「プロローグ」で書いているが、30代も自分の存在意義・自分らしさを大切に、志を持って突き進み、未熟さゆえの失敗と予期せぬ壁に幾度も遭遇している。一方で、多くの職場の仲間たちは、所属部署という籠の中で、既存組織の仕組み・しがらみを踏襲し、サラリーマンとして生存していく道を見出していたように感じる。

 30代を振り返って、私が選択したサラリーマン脱皮への挑戦は、既存組織との闘いでもあり、職場環境から抜け出し、自らの意思で事業再生への道を歩むことであった。たとえ職場になじめず居場所がなくとも、未来に想いをはせ、自らの存在意義を見失わぬよう挑戦することで、不思議と次の挑戦へと繋がっていった。そんな自分らしさへの挑戦であったからこそ、その場所、その時代で進むべき道標を見出すチャンスが訪れ、その道標へと突き進むとき、不思議と次への挑戦の道が開かれていった。自分らしさを大切に、常に挑戦する心を大切にしていれば、チャンスの神様は降臨してくるのであろうか?

 

1-1. 突き付けられた課題

《サラリーマンからの脱皮》

 高専卒業後、Y社浜松事業所で事業課題解決へと突き進んだ20代、この10年間で培った経験と実績は、事業所内での評価とともに、大きな自信となっていた。しかし、30代を目前に、20代で培った自分自身の視座と経験ではまったく議論さえできなかった欧州出張、加えて自らの英語力の無さに打ちのめされた衝撃、そして欧州出張で国際本部M事業部長から突き付けられた課題「サラリーマンからの脱皮」は、今思うと歩んできた道の大きな分岐点であったと感じている。

 時代は国際化からボーダレス化への動きで、欧州では地域内経済と分散型エネルギーへの転換に動いていた。M事業部長から受けた課題「サラリーマンからの脱皮」と共に、かけられた教示(課題)に向き合うこととなるのだが・・・・・
 ▶一事業部門で与えられた課題をこなしながら地道に仕事をしていく、優秀なサラリーマンも会社には必要だろう。
 ▶一方で、激動する世界、その潮流の中で一歩先へ、それぞれの国・地域と共に、新たな時代へのビジネスを創っていく、リーダー型グローバル人材(ビジネスマン)の重要性が高まっている。
 ▶時代は国際化からグローバル化への大きな転換期、50周年を迎えようとしているY社が挑戦しようとしている新たな創業への道、その新たなる挑戦と創造とは何かを感じ取り、自らの進むべき道をしっかりと考えてみろ!

この突き付けられた課題へ向き合うには、浜松事業所での10年間の経験と当時の仕事環境に限界を感じていた。

 ●50周年(半世紀)の節目に、Y社が目指す新たな創業への道とは何なのか?
 ●自動車部門はすでにグローバル化への挑戦をスタート、では生活環境部門における浜松事業所の挑戦とは?

 
 50周年の節目に向け、Y社グループ社長から打ち出された「新たな創業への道」、キーワードは「座標軸の転換」、この背景とその核心など、この時点ではとうてい理解できなかった。

 混沌とした中で、欧州出張から数か月経っても、突き付けられた課題解決への道を見出すことができず、毎晩数時間、独学での英会話を継続しながら葛藤の日々を送っていた。頭の中では欧州出張で受けた衝撃、その体験によって一部門の中で与えられた課題へ挑戦し、優秀と評価され昇進していくサラリーマンではいけないことは理解していたのだが・・・・・・・

 

 1991年50周年を迎えたY社、経営トップから全社社員へ、「座標軸の転換」へのメッセージが出された。
 ■従来の延長線では判断がつかない時代 ⇒ 従来の延長線の目標はそのまま後退を意味する。
 ■従来の座標軸を全面的に転換し、白紙の上に全く新しいトレンドを書き込んでいかねばならない。

 
 そして、新たな創業への人事制度改革「次世代型企業への脱皮」、グローバル人材育成制度がスタートした。

・海外事業所幹部候補者研修 ⇒ マネージメントの現地化へ

・MIT経営大学院スローンビジネススクール(経営学修士)留学制度 ⇒ グローバルビジネスリーダーの育成

・エグゼクティブマネージメント研修 ⇒ 幹部のミッション再定義(財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上)

・新入社員海外アドベンチャー研修 ⇒ 世界にたった一人しかいない君(The Only One への道)

 
1-2. チャンスの神様降臨

 先行き不透明で混とんとした時代にあって “自分は何をなすべきか” “どのような道を自ら進んでいくべきか”、葛藤の日々と業務処理(与えられたタスク)に埋没する日々を送っていた。

 時代は国際化からグローバル化への転換期、変化への挑戦の切符をなびかせながら、チャンスの神様が降臨したのは、欧州出張から2年が経過した1992年の出来事であった。

 

《世界を見晴らす峠、新たな世界への旅立ち》

 1991年日本を襲った “バブル経済の崩壊”、長期不況と円高の進行で産業界は大打撃を受けていた。一方で、大国ソ連の崩壊、東西ドイツの統一、92年に入って欧州通貨危機から欧州連合(EU)発足への動き、北米自由貿易協定(NAFTA)発効へ米国・カナダ・メキシコが署名など、時代はグローバル経済へと転換、地域内経済への新たな潮流と共に、産業構造の転換と資本市場の流動化は、国際競争をグローバル資本主義へと押し上げていった。

 Y社のコア事業である自動車産業は、繊維・鉄鋼に代わり日本の主力産業としての牽引役となっていた。グローバルな市場への製品戦略、ボーダレス化へ対応した生産拠点拡大、情報化社会へのIT技術など、これまでと全く異なる競争環境への適応が求められていた。

 

 時を一にして、1991年マサチューセッツ工科大学(MIT)を拠点とする産学共同研究基盤、国際技術管理研究センター(ICRMOT)が設立された。アジア・欧州・北米の地域へ、日系企業の先陣を切って海外事業を展開していたY社は、米国トップ企業と共に「ICRMOT」参画企業11社のメンバー企業に選定(日本企業3社)された。

 翌1992年社内ニュースに、ICRMOT社内委員会立ち上げ “意欲のある国際的技術者求む” の記事が掲載された。事業所という籠の中で、混とんとした日々を送っていた私の目に飛び込んできた、この社内メンバー公募の記事は、日々の葛藤と混迷の中にいた私に、世界を見晴らす峠へと導く “チャンスの神様” が降臨した瞬間であった。

 ICRMOT社内委員会でのミッションは、「Y社の未来への道筋と課題提起」であった。一方で、ICRMOTを基盤としたMIT産学共同PJから提言される新たな潮流と技術マネージメント研究、その研究レポートの社内討議と提言取りまとめは、私自身の内省を促し、次なる挑戦の道筋へと繋がっていった。
 ●2年間の独学での英語力アップの限界 ⇒ 毎月の研究レポート読破と社内討議へ格闘の日々(頭角を見せる)
 ●自らの知見では理解できないMIT研究レポートとプロポーザル ⇒ 国際的技術マネージメントの潮流とは?
 ●Y社トップのメッセージ(座標軸の転換)の核心に触れる ⇒ 白紙の上に全く新しいトレンドを書き込めの本意

 

 ICRMOT社内活動から半年がたった1992年末、ICRMOT社内メンバーとして、世界を見晴らす峠に立って、自らの挑戦へ2つの道筋を選択した。しかし、この新たな挑戦への道には、越えなければならない難関が待ち受けていた。
 1)次世代リーダーへの挑戦:世界トップクラス“MITスローン経営大学院(ビジネススクール)”への留学
 2)浜松事業所からの旅立ち:一部門の籠から脱出し、ビジネスを俯瞰できる事業本部への異動と事業再生への道

 

《留学キップ獲得へ立ちはだかる壁》

 MITスローンビジネススクール留学(経営学修士取得)へ立ちはだかった2つの壁;
 ▶大学卒と同等の学歴で、8年以上のビジネス経験があること・・・・高専卒は本社人事部の基準に合致しない
 ▶事業所トップの推薦状と社内選考試験&面接による留学内定獲得(最終選考で、1名/年の留学者決定)

 
【立ちはだかった壁①:大学卒と同等の学歴】

 この壁を突破する唯一の道は、ICRMOT社内委員会メンバー(大学卒と大学院卒)との1年間にわたる議論と提言を通じて、Y社中央研究所トップ(ICRMOT推進責任者)から、大学卒と同等以上の評価を得ることでクリヤーした。しかし、浜松事業所M常務から出された事業所トップの推薦条件は、93年度留学への道を閉ざす壁となった。

 
【立ちはだかった壁②:MIT留学経費の創出とプロジェクトの完遂】

ミッション1:合理化によるMIT留学経費創出(海外給与、国内家族手当、住居費、授業料等、約3000万円)

ミッション2:従来からのペンディング課題「信頼性向上PJの完遂」

 
 この2つのミッションクリアーには、最低でも1年の期間が必要で、93年度留学の道はあきらめざるを得なかった。しかし、この期間が、ICRMOTでのプロポーザル読破と社内議論、MIT留学に必要な事前勉強(経済学、会計&財務、マーケティング、競争優位戦略論・・)、GMAT・TOEFL試験等、社内選考の準備に大いに寄与できたことは、M常務の親心であったと感謝している。93年末までの1年間、寝る間も惜しんでの準備期間を経て、MITスローン経営大学院(ビジネススクール)社内1次選考を経て、無事、最終選考会で94年度MIT留学の切符を手にすることとなった。

 

1-3. サラリーマン脱皮への365日の苦闘

 学歴主義の中で、結果にこだわり勝ち抜いた世界のエリートが集うMITビジネススクール、そもそも、高専卒は選考基準に合致していない。加えて、ついていくことが極めて困難な世界トップクラスのMITビジネススクールへの留学に、事業所内と本社人事部門で心配な声が広がっていた・・・・・
 ●いくら社内選考で選ばれたとはいえ、“この無謀な挑戦”、清水はやっていけるのか?
 ●通常2年の経営学修士を、1年で取得する休みもほとんどないインテンシブコースらしいぞ!
 ●あいつ、生産と技術部門の経験はあるが、そもそも経営学とは程遠い実務経験で大丈夫なのか?

 
 入社以来、学歴主義をベースとした大学卒・大学院卒との給与ギャップ、人事配置等々、当時の私は高専卒の人間としての強み、そして仕事では絶対に負けないという秘めた思い(プライド)を抱いていた。 今思うと、30代に入り、自らの進むべき道と組織に問われる能力へ、出口の見えない葛藤の中でもがいていた時期でもあったのだろう。

 当時の心境を、新居浜高専金属工学科が材料工学科に科名変更し5年がたった1992年の機関紙「マルテンサイト最終号」に、13H代表で寄稿したメッセージ文に、心の葛藤を綴っている。(若さゆえエントロピー増大中であった・・・・)

 

《気高い志と家族に支えられ、留学で得たものとは?》

 世界の峠に集うMITビジネススクールの同期、まさしく超エリート集団、学位取得とキャリアアップを目指し、新たな企業へと転職を目論む者、企業内で経営幹部への昇進を目指す者たちが、自らのキャリアパスを描き集っていた。

 私にとってのMITでの1年間は、寝る間も削って格闘する365日の修行であり、日々の講義についていくことさえ厳しいスタートとなった。とにかく、教授陣から機関銃のごとく飛んでくる問いかけ、クラスメートとの討議バトル、講義を止め、自分の意見を表現する言葉さえ、英語力とスピードという壁に阻まれていた。しかし、この逆境とも言える環境が、私の奥底に眠っていた闘志を呼び起こし、全身全霊を籠めた修行のような日々への奮起に繋がっていった。

 日本人は大体クラスの後方に席を取るのだが、私は毎日のすべての講義を、最前列のど真ん中で教授と向き合う日々、1ケ月を過ぎたころには“Kazuoシート”と呼ばれ、誰も座ろうとしなかった。日々の講義とレポート、試験のやり方までへたくそな英語で教授とクラスメートへ立ち向かっていく、いつの間にか変な地球人としての存在感を醸し出していった。

 
 夏学期が終わり、必須5教科の成績はY社で前例のない“オールA(5.0)”、最終15教科と卒論で、トップクラスの平均スコア4.8(5段階)を獲得した。しかし、私にとって学位と成績は重要ではなく、世界の峠を見晴らすビジネスエリートとの討議、ロジカル思考と人間関係の構築、そして日本の強みの改善(カイゼン)vs イノベーション、ローカルvsグローバルからグローカルの時代など、ビジネスマンとしての新たな旅立ちへの土台作りが重要であった。

 そして、MITスローンビジネススクールで体得したもの、それは「世界トップエリートも同じ人間、大したことはない」、「思ったこと、イメージしたことは必ず実現する」、「自分も世界で戦っていける」・・・そんな達成感と共に、いよいよサラリーマンからビジネスマンとして、再スタートができることに期待が膨らんでいた。

 

 このMITでの1年間の苦闘を乗り切ったのは、日本から地球の反対側の私に届く、家族(妻、2人の娘)からの毎月のメッセージ、そして、娘の夏休みに家族を呼び寄せ共に過ごした日々で感じた、家族の大切さにあったように思う。夏休みが終わってボストンローガン空港からの家族を乗せた飛行機が飛び立つのを見送りながら、なぜか涙が溢れて止まらなかった。
 

 

《社員の叫び(ロマン)を受け入れたトップの親心》

 MIT卒業式までの期間をクラスメートと過ごしながら、4月のボストンマラソン出場への最終調整を進めていた。そんな時、本社人事部から留学後の異動辞令が届いた。Y社“技術開発本部への異動を命じる”、遠いボストンの地で受け取った異動辞令、私が留学への提言書で描いていた浜松事業所を統括する環境エネルギー本部への異動ではなかった。

 浜松事業所M常務に連絡すると、自動車のこれからの最重要な部署への異動 “おめでとう” って・・・・本社人事部門の人事部長、担当常務に問い合わせると、Y社コア事業をけん引する技術開発部門への異動を祝福された。MIT留学時の提言、「既存事業本部の事業再生の実現」へ異動辞令の撤回を願い出るが、人事異動の権限は留学決定時点で本社人事部にある、異動辞令撤回とは何事か!・・・・・ 希望と異なっていますと叫んでも取り付く島もなかった。
 ■MITで習得した技術マネージメントで未来技術開発に貢献でき、社内エリートの道“スーパーサラリーマン?” でも、自らの意志でこれまで挑戦してきた道を変えるのか? この異動を受け入れて自分の生き方に後悔はしないのか?
 ■悩んだ末の結論、異動辞令撤回への道 「Y社グループ社長への直接提案」、MIT時代にお世話になった北米マネージメントカンパニー社長経由でグループ社長への提言書を送った。当時、北米事業拡大でグループ社長が、新会社視察にアトランタを訪問、そのタイミングで社長への直接提言の場が設定された。

 

 1995年当時の時代背景は、バブル経済崩壊後の内需縮小、急速な円高進行(80円/$前後)による輸出体制の崩壊、IT化による情報のスピードアップ等、自動車業界はグローバル化対応へ、開発・調達・生産・営業の現地化を余儀なくされていた。1991年トップ方針で打ち出された“座標軸の転換”は、95年当時すでに変革を生き抜く実行フェーズへと移行していた。Y社グループ社長の一歩先ゆく先手主義が、1990年代の10年間で、新たに14ケ国への事業展開、売上は1兆円に迫り、従業員10万人を超える規模への事業拡大を見据えていたことなど、その時の私には到底理解できていなかった。
 ▶1991年:西サモア工場新設、欧州事業拠点拡大(イタリア、ベルギー、英国)
 ▶1992年:北米技術研究所設立、タイ第3生産拠点開設(2600人)
 ▶1993年:合弁会社設立(ポルトガル、米国)
 ▶1994年:米国ビック3子会社買収(11拠点、12000人)、合弁会社設立(メキシコ、スロバキア)
 ▶1995年:合弁会社設立(トルコ、コロンビア、中国)、新会社設立(フィリピン、シンガポール、ベトナム、アルゼンチン)

 

 当時の自動車部門のグローバル事業展開への戦略的提携と新たな人材登用の状況下では、MIT卒業後に自動車部門へ異動することは必然であった。そして社長との面談当時、Y社は新たな存在価値を求めて、すでに変革への第1歩を踏み出した時期であった。この変革の時代において、世界の国々・地域での新たな挑戦の重要性について、経営トップの想いを聞き、グローバル人材として世界で活躍すべきだと諭される面談で終わるはずであったが・・・・・

 面談は数時間に及んだが、私の揺らぐことのない初心貫徹の想いと“環境エネルギー部門事業変革の重要性”の提言の心意気に、大家族主義と人の個性を重視する企業文化を貫いてきた社長の親心に、何かが触れたのだろうか?

 「まだ、激動する世界の実状を知らないのか?」 「既存ビジネス変革の厳しさを経験させてみるか?」と思ったかはわからなかったが、結果的に、我儘を聞いていただき辞令は撤回され、晴れて環境エネルギー本部への異動となった。

 しかし、この人事面談の背後でうごめいていた国内市場の厳しさと、Y社グループ組織構造改革への準備が進められていたことを、数年後に気づかされることとなる。そして、この激動の時代の荒波に吞み込まれ、既存ビジネス再生に立ちはだかる真の厳しさに遭遇し、提言する事業再生計画が、木っ端みじんに打ち砕かれることになるなど、この時は知る由もなかった・・・・・

 

1-4. 志を貫き、事業再生プラン提言

 環境エネルギー本部4事業部門の一部門である、空調機器事業部企画部に配属され、商品企画の担当となったが、既存の仕組みを順守するルーチン的企画業務であった。中長期の事業企画に紐づいた商品企画への事業環境分析、市場ニーズ&競合分析、差別化ポイント等、本来の企画業務とは程遠い業務内容であり、トップメッセージ “従来の延長線の目標はそのまま後退を意味する”、このトップ指示とは裏腹な仕事環境に、大きな危機感を抱いてのスタートとなった。

 

《固定概念打破・事業再生へ物申す》

 担当業務は大型市場参入への新商品企画であったが、すでにプロト機は開発されており、指示された業務は開発企画会議に答申する“商品企画書を作成しろ!”であった。社内会議用に、定例の企画書フォーマットに、営業からのヒアリングをベースに市場分析、要求仕様を書き込み、売上と利益計画を作成といった従来型資料づくりで、開発・営業・生産・サービスの各部門を巻き込んだ、市場競争を勝ち抜く事業計画ではなかった。

 指示された商品企画書作成と同時に、3ケ月先に迫った企画審査会議で新たな提言内容の答申をするが・・・・・
 ▶大型市場参入には、事業戦略と商品企画のリンクが重要、そのために事業全体を統括する「事業企画部新設」と企画段階から全部門を巻き込んだ「コンカレントなプロジェクト体制の導入」を答申した。
 ▶そのプロジェクト推進体制には、次世代をリードする部門横断のタスクメンバーとプロジェクトマネージャー制を採用し、PJ事務局を私が統括する提案をしたが、それまでの各職制トップが担当業務を推進する個別業務体制からの転換への合議には至らず、提言内容は保留、具体的な再提案へ6ケ月の猶予が与えられた。

 
 大型市場参入への事業企画書と新商品企画書を新規に作成と同時に、新プロジェクトメンバーへの説得、そしてコンカレントなプロジェクトマネージメント制の導入、この新たな提言には、長年にわたって踏襲してきた業務プロセスと古き良き時代を生きてきた成功体験(既得権)打破が障壁となった。幸い、開発・生産・営業・サービスの各部門で、変革への危機感を持っていた若手メンバーが徐々に賛同へ動き始め、何とか提言は承認された。提言の実行へ、事業企画部の新設と同時に、事業企画部リーダーとして次世代メンバーと共にプロジェクトの実行と推進へのスタートを切った。

 しかし、バブル崩壊後の日本経済は更に厳しさを増し、Y社の事業収益構造は急速に悪化していくことになる・・・・・

 

《護送船団の解体、迫りくる事業部門撤退の危機》

 1997年大型市場への参入と戦略的商品投入により、市場トップシェアの獲得と遠隔監視サービス事業の本格展開へと繋がっていった。98年に入って更なる事業拡大へ、関西地区のエネルギー事業者、国内トップの空調機器メーカーとの3社戦略的提携による環境対応型新商品開発の契約交渉、そして新商品開発が幕を切っていくのだが・・・・・

 事業を取り巻く環境は想像以上に厳しい状況下にあった。国内経済は1991年バブル経済崩壊後、低成長時代へ突入、金融機関の不良債権問題、企業倒産続出と失業者増大、物価は下落し実体経済の縮小が進行していた。特に、金融市場の停滞と構造不況はあらゆる産業を巻き込みながら、産業構造変革へと地殻変動を引き起こしていた。そして1996年の金融制度改革(金融ビックバン)によって、本格的グローバル経済の幕開けへと繋がっていった。

 

 98年に入り、Y社グループ社長からの年頭メッセージ「護送船団の解体」と題して、“グループ運営の構造改革”が打ち出され、グローバル化時代を生き抜く3つのキーワードが示された。並行して、自動車部門はビジネスユニット(BU)制、生活環境機器部門は、本部ごとの独立採算制へと移行していった。既存事業存続の基本要件は、収益体質への転換であり、国内事業所の統廃合、不採算部門は撤退も厭わずとの強烈なメッセージが打ち出された。

 

《打ち砕かれた事業再生への提言》

 グローバル経済への移行において、内需に依存できない自動車業界は、IT技術革新による情報化の進展と共に、ボーダレスなグローバル環境下での構造改革、そして海外進出、資本提携へのダイナミックな変革が求められていた。Y社は、「護送船団の解体」へのグループ運営の構造改革に向けて、自動車部門の国内生産拠点の統廃合と新規事業への挑戦をスタート、並行して、グローバル化対応へ世界4極体制とマネージメントの現地化を加速、その構造改革は想像以上にドラスティックに進められた。その時代を先読みしたグローバル化への構造改革によって、1990年代の10年間で新たに14ケ国に事業展開、売上は1兆円に迫り、従業員規模は10万人超える規模へと急速な成長を遂げていった。
 
 一方、環境エネルギー本部は、内需中心の事業であり、想定以上に国内経済は減速し市場規模が縮小の中で企業間競争は激化していった。従来の延長線上での中期事業計画では、事業本部の収益構造の改善は厳しく、事業収益の改善は厳しい状況が続いていた。特に、私が担当している環境エネルギー本部は、長年の赤字体質から脱却できず、中長期事業計画において、従来型の収益改善策では、赤字脱却への道筋を描ききれない状況にあった。従って、空調機器部門は 「独力で事業再生の道」 を歩むか、「事業撤退をする」 かの、いずれかの選択を迫られていた。

 98年春の本部運営会議に向け、企画統括リーダーとして事業再生計画答申を担当することになった。事業再生計画のシナリオは、MITビジネススクールで学んだ経営戦略フレームをフル活用して、2年後に黒字転換を目指す答申内容を完成させた。それは長年当たり前に継続してきた古き良きビジネス慣習(悪循環サイクル)との決別であった。

 この事業再生プランの実現には、20%を超える合理化が必須で、工場の統合・営業拠点の統廃合・不採算商品の打ち切り・販売店制度見直し・サービス事業の取り込み等、内部損益構造の改革へ、血の出るのを厭わず構造改革を断行する内容での答申となった。

 

 98年春、事業企画部長と共に、事業再生計画の答申責任者として臨んだ本部運営会議で、グループ社長から「事業存続を承認できるものではない」との厳しい判断が下され、事業存続の道が閉ざされる結果となった。
 ●この答申書の内容は、コンサルに依頼すれば作成できるような内容であり、従業員の危機感が感じられない。
 ●事業存続の基本は、社会における存在意義であり、この事業は社会に貢献できる提供価値があるのか?
 ●この答申は、数字のつじつま合わせで黒字化する提案、社員の事業存続意識、本気度に疑問を感じる。
 ●給与カット・賞与凍結でも、是非やらしてくれという情熱を持った人間はいるのか? 成功も失敗も人で決まる!
 ●自動車のグローバル化対応への転換期に非常に危機感を持っており、ドラスティックな改革が求められている!

 
 事業再生検討メンバーで、運営会議に向けて徹底した討議を経て提言した“事業再生計画”であったが、打ち砕かれる結果となったのは、MITビジネススクールでの経営工学など、所詮、基本的な知識であり、部門幹部と全社員を巻き込んだ熱量(発奮)には到達していなかったことが最大の課題であった。そして、このトップ判断を受け、部門幹部から社員へと事業撤退の危機感が広がっていったが、事業部門として再起する動きには繋がっていかなかった。

 

1-5. 事業再生へ“運命の恩師との出会い”

 打ち砕かれた事業再生計画であったが、私はただ一人あきらめることができない思いでいた。その後、社長から指摘された事業存続意義、市場への提供価値に関する書類を作成、運営会議メンバーであった本社役員へ面談を申し込み、社長の指摘に対し説明できなかった実状を訴えるが、どの役員からも会社の構造改革の状況説明と、「事業存続の道は厳しい」と、私を諭す話ばかりであった。

 そんな時、M副会長(入社当時浜松事業所常務)から、運営会議の結果を心配して呼び出され、激励のアドバイスと教示を受けた。
 ■頭で考えるのではなく、全身で受け止め、そして考えろ! 理屈ではなく、体験から気づき、道が見えてくる。
 ■そして、心から正しいと思ったら、その道を全身全霊で無我夢中になって突き進み、突破しろ!
 ■まだ道半なのに、中途半端な気持ちで諦めるのか? 会社にとって今、何が重要なのか? 障壁などぶっ壊せ!

 
 社長が問題視したもっとも重要な視点、そして副会長からのアドバイス、その核心とはいったい何なのか?
 ●社員の危機意識、本気度? この事業への情熱を持った人間? 成功も失敗も人で決まる?
 ●答申書は、コンサルに依頼したような事業再生計画だったのか・・・・・
 ●副会長からは、頭で考えるな、全身で受け止め気づくこと? 理屈ではなく体験?

 
 運営会議から2週間がたったころ、私に届いた社長秘書からの伝言、“社長直々にヒアリングをするから中間管理職(部長とリーダー)を集めろ”、との指示であった。そして、社長からの中間管理職との対話で伝えられたこと、私にとってそれは、親から子への厳しい叱咤激励のように感じた。
 ■日本の産業構造転換期、従来の延長線上では解決できない。成功体験を捨て、時代に合った体制転換を!
 ■今回の提案書を否定はしないが、コンサルが作ったような構想書では会社は変わらない。
 ■大切なことは、変革をやり抜くメンバーでの再スタートだ。再度言うが、最後は成功も失敗も人である!

 
 グループ社長が直々に時間を割いて、私たちに伝えたかったこととは何なのか?その後、その経営トップからの指摘、その核心へとオフサイトミーティングで討議を重ねていったが、解決策への道へ思いを一つにすることはできなかった・・・・

 当時の私にできるたこと、それはアドバイスを真摯に受け止め、全身全霊で自らの心で感じたことを素直に伝えること。そして、誰にも負けない情熱、この事業への想いのすべてを書き綴ることであった。何を伝えたいのか、実状と従業員の声、その思いを半分も書ききれなかったが、私自身の心からの思い(熱量)を社長への手紙にして、秘書経由で手渡した。
 
 その後、グループ社長からグループ副社長への指示が飛び、“清水と面談しろ”、そしてビジネスの厳しさと実業とは何なのかを教示しろ!であったと後に聞かされた。副社長は、社長との二人三脚で、自動車のグローバル化へ担当役員、各事業部門を統括してきたY社グループ経営トップ(NO2)であった。数回にわたる副社長との面談を経て、98年も終わりを告げる12月に入った頃、副社長から最後の面談への呼び出しを受けた。社内のオフサイトミーティング、本社役員との面談を経て、副社長との面談で確かなものを掴みつつあった。それは、創業当時の企業家精神への原点回帰であり、そこからのスパイラルアップには、マンネリ化した組織文化を打破することであり、社員が主体的に変化へ挑戦していく風土づくりが重要であることを訴えた。空調機器部門は、その問題の真っただ中にいる(問題児)、だからこそ、私たち、いや私が立ち上がらねばならないと・・・・・

 未熟ながら誠心誠意訴えてみたが、経営トップとして会社の社運を賭けた舵取りの真っただ中、私に帰ってきた言葉は、今は自動車のグローバル化への基盤構築の最終段階にある、最終結論に向けて半年間の猶予を与えると・・・・・・

 

《運命の恩師に導かれ修羅場への道へ》

 翌、99年1月、半年の期間を待たずして、突然の組織・人事異動が発表された。自動車のグローバル事業を牽引してきた、国際本部長であったM専務がエネルギー機器本部のトップに就任、2年限定で空調部門再生ミッションを受け、事業再生への担当役員として降臨した瞬間であった。M専務は、10年前に欧州出張で、私にサラリーマンからの脱皮と課題を与え、新たな道標を教示してくれた人であった。本部の担当役員、そして開発・工場のトップは全員他部門へ異動し、M専務がすべての部門トップを兼務し、単身で改革への陣頭指揮をする異例の人事であった。40代を目前に控え、30代で自分らしさへの挑戦で、サラリーマンからの脱皮へと突き進んできたが、企業トップから見れば、ビジネスの厳しさを経験していない未熟な若造であったのだろう。この運命とも言える恩師との出会いが、次の40代で大きな成長へと導かれ、次世代リーダーへと挑戦していくこととなる。

 その後の2年限定での改革は、想像を絶する事業再生へのいばらの道が待ち受けており、その改革への日々は修羅場の連続、誰も想定していなかった修羅場化した道で脱落者が続出する中で、M専務による真のビジネスリーダー育成への改革が進んでいった。

 

 次回の40代の歩みは、いよいよ始まる真のビジネスリーダーへの道、その既存事業再生へと修羅場化していく中で、戦っていく同志との奮闘ドラマは想定外の展開へと進んでいく。自ら選んだ自分らしさへの挑戦は、異業種との提携による新規事業、そして最年少事業部長就任へと繋がっていった。次回40代のOBメッセージでは、自分らしさへの挑戦、“真のビジネスリーダーへの奮闘” を書き綴ってみたい。

 

 



運営からのコメント

大きく変化する環境の中で「会社の、事業のあるべき姿」を考え、悩み、何度も提案し、たたきのめされ、それでもあきらめずもがき続ける30代の姿です。 冷戦が終わり市場が大きく変化してゆく中で、会社は「新たな創業の時期」へ。次世代リーダーにならんと、進んで活動しチャンスをつかみ、挑戦し続けます。MIT留学、事業革新の提案、トップからの指示と対話、そして出逢いなどが綴られており、自分を信じ、信念を曲げず、高い視座でアクティブに進み続けるOBの姿をリアルに感じます。ぜひご一読下さい。
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