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OBからのメッセージ No.12

  • 第3期 電気工学科
卒業年度:1969年(S44年)

  • 第3期 電気工学科
卒業年度:1969年(S44年)

表題

  • 唐招提寺と鑑真和上

2022/11/20

 

唐招提寺は素敵だ!鑑真和上が好きだ!

 

2022年は日中国交正常化50年の節目に当たるが、日中は歴史的にも必ずしも良い関係を築いてきたとは言えない。昨今は中国の強権体制により緊張感あふれる日常といっても過言ではない。過去には田中角栄元総理や松下幸之助松下電器創業者その他多くの方々が、日中友好に向け努力をしてこられた。その結果、現在の平和が保たれているわけだが、1300年前にこの日中友好の先駆者としてご尽力されたのが唐招提寺を建立された鑑真和上である。

 

私は20年近く前に初めて唐招提寺を訪ねた。奈良には多くの観光名所があるため、それまで唐招提寺を訪ねている時間的余裕と言うより、恥ずかしながらその存在もほとんど知らなかった。 レンタカーを駐車場に停め、門を潜った途端、何か気の引き締まるものを感じたが、その原因が正面の金堂にあることはすぐに分かった。

 

金堂の中の三尊、すなわち廬舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音菩薩立像の堂々たるお姿にまず圧倒され、三尊の周辺の小振りの仏様を含めて9体全てが国宝と知り、身体全体が震えるような感覚に襲われたほどであった。

 

その後、開山堂で鑑真和上のお身代わり像を見た時は、不勉強の為それほどの感激はなかった。帰る途中で買い求めた、井上靖の「天平の甍」には、鑑真和上が日本へ渡航する詳細が書かれており、初めて鑑真和上の偉大さを知った次第である。

 

偉大さの第一は、その不屈の精神力であろう。鑑真和上が日本へ招聘された理由は、当時日本は疫病、地震、反乱等で多くの人が亡くなる中、仏教の力で国を立て直そうと多くの寺を建立した。当然僧侶の数が大幅に増加し、中には税を逃れるために勝手に出家する者も出てきて世の中が大いに乱れた。これを正すため、戒律を授ける僧侶として鑑真和上が選ばれたが、日本に到着するまでに12年もの年月がかかった。その理由は、師の身を案ずる弟子の密告や悪天候による船の座礁、挙句の果てには海南島まで流され、そこから故郷の揚州を目指しての想像を絶するような長旅を余儀なくされたことだった。その後、6度目の渡航でやっと日本に辿り着く着くことに成功した。

 

しかし常人には理解し難いことだが、何故こんなに失敗を重ねても諦めずに挑戦し続けたのか、またし続けることができたのか、ということだ。

 

時代は奈良時代、船の作り、大きさも今とは桁違いで、日本の招聘に対し安全性を考えると弟子たちがこぞって反対するのも無理からぬ中、自ら率先して招聘を受けたこと、またそれを完遂したこと、これは月並みだが信じられない!

 

鑑真和上は、授戒を頼まれた時、次のように言ったと伝わっている。「仏教者が来たら最大限もてなさなければいけない。私は、これこそ御仏が課して下さった役目だと確信した。これを果たさなければ私の信仰は偽物だと公言するようなものだ。仏の教えを広めるためなら、我が身、わが命を惜しんでいられようか」。この自分に厳しい気持ちが12年もの間揺らぐことがなかったものと思われるが、神仏と並び称される人物だ、としか言いようがない。

 

鑑真和上の日本への貢献は授戒以外にも、漢方薬等の医療技術、味噌・砂糖等の調味料、柿の接ぎ木等の農業技術等を日本にもたらしたことがあげられる。これは現在に生きる我々が如何に恩恵を受けているかは言うまでもない。鑑真和上の人間の大きさは計り知れない。

 

鑑真和上の肖像(国宝)は唐招提寺の御影堂に安置されている。それは写実的で、日本の肖像彫刻の最初の像である。鑑真和上の命日は6月6日で、肖像が公開されるのはその前後3日間のみ。また御影堂の部屋の襖絵は、東山魁夷画伯が鑑真和上のために10年をかけて描いたもので、68面から構成されている。南側の部屋には日本の風景、北側の部屋には中国の風景が描かれている。是非とも一度は見てみたいものだ。

 



運営からのコメント

1300年前に来日した鑑真和上に思いを馳せたエッセイです。 渡航が命がけだった時代に、12年をかけて来日し、仏の教えを伝え、あらゆる事を指導した、不屈の精神力と揺るがぬ信念を持った和上への想いを語っています。ぜひご一読ください。
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