OBからのメッセージ No.15
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渡部 進卒業年度:1967年(S42年)
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渡部 進卒業年度:1967年(S42年)
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表題
- 喜寿を前にして
2023/1/30
昭和36年に、「昭和37年春、全国で12校の高等専門学校が設立される」と報道された。当時、中学校でトップクラスでないと入学することは難しいといわれ、高校より1か月位早い2月初旬に入学試験が有ったこともあって、殆どの受験生が力試しの受験をした為、15倍近くの狭い門となった。
地元、新居浜からは多数受験し、私の母校、新居浜西中学校から17名合格したと記憶している。2017年版の燧会会員名簿では、機械工学科3名、電気工学科4名、工業化学科3名、計10名 名前がある。残り7名は、力試し等で受験し、将来、大学へ進学予定で入学を辞退したようだ。
入学当時、愛媛大学工学部と寮、教室等を共用していたので、地元新居浜市在住者は入寮しなくても良かった。5年間、自宅から片道30分位かけて自転車通学をした。心身ともに元気なのは、この自転車通学のお蔭と思っている。
5年間寮生活を共にし、今はFacebookで会話を楽しんでいるSさん、Mさん、Yさんを羨ましく思っている。 食堂で焼きうどんを食べたり放課後に将棋を指して遊んだOさんは彼が住んでいた中萩まで行ってパチンコをしたり、自宅で語り合ったYさんとはコロナ渦になるまでゴルフをしたり岸和田のダンジリを見たり旅行をしたのが楽しかった。
近所のS鉱山の社宅に、電気工学科3回生のFさんが居た。年齢が違っていたため、小中学校の時は、特に交友はなかったが、高専に入ってから、垣生海水浴場のS鉱山海の家で監視員のアルバイトでご一緒した。海の家のおばさんに可愛がって貰った覚えが有る。Fさんは日本中神出鬼没に活躍されているようで、その現況をFacebookで知ることが出来るのは嬉しい。
高専の授業は、難解だった。特に、物理の授業はついていけなかった。田中先生だったか否か名前は定かには覚えていないが、数字の”0”を「ジエロ」と発声されるので、先生の名前をミスタージェロと称して憂さ晴らしをしていたように記憶している。卒研は、近藤康夫名誉教授(当時は、徳島大学を卒業してすぐ新居浜高専に助手として来られ、兄貴分的な先生でした)に従事し、自動制御をテーマに取り組んだ。昭和42年4月、F通信機(入社1年後にF通に社名変更)に入社した。入社式は、学卒300名の中に、高専卒が7名だった。高専・大学卒でせいぜい数十名程度と思っていたのでショックだった。知人から電気を卒業したのに、どうして運送会社(日本通運からの連想)に就職したのかと聞かれ、F電機の子会社だと言い訳がましい説明をした。
新入社員研修を約1ヶ月受け、交換機部門に配属された。長野県にある須坂工場で1年ほど工場経験をしてくるよう上司から指示を受けた。須坂工場には、私を含め、学卒7名が赴任した。長野駅からバスに乗り、F通信機須坂工場前で下車したが、工場らしき建屋が見あたらなかった。近所に人にたずねると土蔵の奥に工場があると教えてくれた。須坂工場内に女子寮、銭湯のような浴場が有り、家族的雰囲気を持った工場だった。男子寮は歩いて10分位の所に有り、銭湯は近くの臥竜公園入り口にあった。真冬、入浴して寮に帰る間にタオルが凍ることには驚いた。当時、須坂工場には、従業員4千人の内、女子工員が3千人位いた。殆どが隣の新潟県から来ており、須坂工場の平均年齢が20歳で、私と同い年だった。その後、私と共に平均年齢が上がっていった。
25歳で結婚し、30歳で自宅を建て、春夏秋冬、風光明媚な北信濃を楽しんだ。高専一期生として学卒に勝るとも劣らない成果を出すよう業務に励んだ。35歳の春、シンガポールのFCL工場に赴任した。住居は日本人学校に近い所にした。当時のシンガポールは発展途上国で、人口も100万人以下で、淡路島位の面積を有する多民族国家であり、公園のような国だった。物価、人件費の高騰に伴い、シンガポールの工場を半導体部門に譲り、マレーシアに移る事になり、「マレーシアへの工場移管」を幹部社員研修テーマとした。当時F通の幹部社員研修は、NHKで取り上げられ、自殺者も出ていた為周りから心配された。
5年間の駐在で須坂工場に課長として帰任した。その後部長職を務め、50歳過ぎに、マレーシアのバトバハにあるFCM工場に社長として単身赴任し、4年間勤めた。バトバハは、シンガポールとマラッカの中間に位置している。果物の王様、ドリアンの産地として有名なことと金子光晴の「マレー蘭印紀行」で紹介されているように戦前は日本人街が有って、日本人が指導して作ったゴム園があった。茶色く濁ったマレーシアの川には大きな蛍がいて、一斉に光ることには驚いた。帰任前には、社員3千人を1千人にスリム化する希望退職を実施した。希望退職といっても、予め、残したい人材をリストアップして、リスト外の希望者を認める方式をとった。驚いたことには、リスト外の退職希望者が圧倒的に多く、苦労せず優秀な従業員を残すことが出来た。須坂工場に統括部長として帰任し、58歳で役職定年を迎えた。
この頃、F通からコンポーネント部門が独立し、T電気と一緒になり、FTコンポーネントが設立された。その子会社のMFコンポーネントの初代社長に任命され、宮崎県日南市に58歳から5年間勤め、63歳で退職した。
母親が新居浜で独居していたが、85歳と高齢化しており、長男の私が見ていかねばならないことが退職理由であった。お袋が97歳で亡くなる迄の約12年間、お袋のショートステイ(介護施設に20日、自宅に10日滞在)のため、信州から新居浜迄1回/1ヶ月通い,約10日間滞在した。この間、車でお遍路参りをし、長野県から西の地域は全て、車で見て回った。
コロナ渦が猛威を振るう直前の2019年秋に、墓終い等をして、先祖代々の遺骨を善光寺に移した。来年1月末に喜寿を迎えますが、マレットゴルフ(4回/週)とマージャン(2回/週)を楽しみながら、まだ行っていない旅行先(沖縄、北海道等、海外ではギリシャ、フランス等)に元気なうちに行きたいと思っている。以