OBからのメッセージ No.40
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青野 哲卒業年度:1977年(S52年)
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青野 哲卒業年度:1977年(S52年)
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表題
- 言葉の大切さ
2025/05/05
1972 年(昭和47年)4月に新居浜高専へ入学してから、早くも50数年が経ちました。これまでの学生生活、社会生活の中で経験した「言葉の大切さ」について、紹介したいと思います。
私は今治市で生まれ、中学までずっと今治で育ちました。中学までは自分が使っている言葉が普通であって、特に意識することはありませんでした。大阪の叔父と関西弁で会話する事もありましたが、あまり違和感はありませんでした。強いて言えば、中学から英語の勉強が始まり、改めて国により言葉に違いがあることを認識しましたが、日本では普通に通じると思っていました。
しかし、新居浜高専に入学して、愛媛県(香川県の人もいましたが)各地から集まった同級生と寮生活を始めたとき、自分が使っている言葉が通じない、友達の話が何を言っているのか理解できないことがあったのです。これはショックでした。今までは普通に通じていた自分の言葉が通じない、相手の言っている言葉の意味が判らない。英語ではなく、お互いに日本語を話しているのにも関わらず。幸い全寮制だったので、学校でも寮でも、みんなが一日中一緒に過ごすことで、お互いの言葉の意味を理解できるようになりました。最初の頃は方言を意識し、極力標準語を使うように努力しましたが、いつの間にか意識せずに話ができるようになりました。
1977 年(昭和52年)4月に就職して、茨城県勝田市(現在のひたちなか市)にある電機メーカーの工場で会社生活が始まりました。ここでも会社の寮に入りました。高専卒は学卒、修士卒の人と同じ扱いで、同期は18人(高専卒は私1人だけ)でした。今度は日本全国から集まったので、また、言葉の違いを気にしましたが、皆さん大学で同じような経験を既にされた方々で、お互いに通じる言葉を意識していましたので、高専入学時のようなショックはありませんでした。
当時は入社後に現場実習があり、工場の製造現場で作業者の方と一緒に実際の作業を行いました。ここで2度目のショックを受けました。作業者の方は地元出身の方が多く、バリバリの茨城弁だったのです。一緒に作業をしている方から、何か怒っているように指示をされたのですが、全く判らず呆然としていると、他の方が「もうすぐお昼だから手を洗っていいよ。」と言っていると説明をしてくれました。茨城弁は早口で知らない人には怒っているように聞こえるのです。これも生活する中で少しずつ勉強をして覚えていくことができました。茨城弁を覚えて、少し使えるようになることで、人間関係が一層良くなることを、身をもって知ることができました。
実習が終わって、エレベーターの電気設計を担当することになりました。エレベーターの運転をさせる回路設計を行う業務です。当時は多いものは数百個のリレーを使って回路を構成していました。配属されて間もないころ、グループ内で回路の勉強会がありました。徳島高専卒の7年先輩が先生でした。説明の際にホワイトボードに回路図を何も見ないですらすらと書く姿を見て、驚きと憧れを抱きました。リレーの名称と役割を記憶しており、皆さんがリレーの名称で会話をしていました。これも言葉の一種です。仕事をする上で必要な言葉で、共通の認識を持っていないとお互いに会話が成り立ちません。今はできないと思いますが、当時は特別に許可をもらい、資料を寮に持ち帰って必死で覚えました。その後、リレーからマイコンに変わりましたが、名称は引き継がれ、現役時代はその道のプロとして通用したと自負しています。
海外の案件もあり、英文の仕様書を、辞書を引きながら読み解くこともありましたが、日本国内の業務が主体でした。また、英語で会話をする機会もなかったことから、いつの間にか英語を避けるようになり、苦手意識を持ってしまい、勉強もしなくなっていきました。今考えると、これは大きな反省点だったと思います。自分の中では英語ができないので、海外業務は関係ないと思っていたのですが、あるとき中国の合弁会社への出向の話がでてきました。英語が必須ではない海外業務があったのです。
1997 年3月に中国にある合弁会社に赴任しました。業務は通訳が現地の方との会話をつないでくれ、書類も翻訳をしてくれます。しかし、買い物をするにも中国語が全く分からないのでは困るので、少し慣れてきた8月から家庭教師をお願いして中国語の勉強を始めました。基礎から始めて6か月を過ぎたころ、それまで雑音としか聞こえていなかった中国語が突然言葉に聞こえてきました。その後は単語を覚えることに注力し、1年を過ぎた頃には日常生活では困らない程度に会話もできるようになりました。仕事の面でも、通訳が翻訳する言葉がすべてだったものが、自分が理解した内容と通訳の翻訳を比べて違いを確認することで、相手の考えや気持ちを正しく受け止めることができるようになり、相互理解が深くなり、業務効率も上げることができました。これらの経験を通して実感したのは、中国語を日本語に翻訳して理解するのではなく、中国語をそのまま理解することが正しく理解する上で重要であるということです。この事は大昔、英語を勉強した時に言われたように思いますが、当時は理解できなかった覚えがあります。中国語の中には日本語では適切に説明できない言葉があります。勿論、その逆もあります。これは、現地の言葉でそのまま理解しないと誤解を招いてしまいます。今でも、中国の出向経験者同士で話をする時に、中国語で表現することがあります。当てはまる日本語が無い為です。
当時は立上げ当初で、生活環境も厳しい時期でしたので、2年経過した1999年4月に帰任しました。(その後、2006年4月~2012年9月、2015年8月~2018年7月と合計3度、11年半の間、中国で業務を行いましたが、その話は別の機会とします。)帰任後、部下の結婚式で挨拶をする機会があり、その際に中国で経験した言葉の難しさを伝えるようにしていましたので、紹介します。
中国人の友人と電話で会話した際の話です。電話を掛けましたが、今忙しいようで「等一下」と言われました。辞書で引くと「ちょっと待って」です。後から電話をくれると言うので、待っていました。私の中では5分か10分すれば電話がくると思い込んでいました。しかし、しばらく待っても電話がきません。2時間待ってもこないので、さすがに待ちきれずに電話をして、「等一下」と言ったのに2時間たっても電話をしないことを怒りました。すると、逆に「等一下」と言ったのに何故怒るのか。「等一下」は1日でも、1週間でも、1ヵ月でも、長い時は1年でも問題無いと逆に怒られました。確かに、中国4000年の歴史で1年はちょっとかもしれません。日本語でも「ちょっと」は人により認識が違っています。結婚でいうならば、言葉はその人が生まれてから今までの経験の中で認識してきたもので、違った環境で育った新郎、新婦も多くの言葉の認識が食い違っていると思います。早くお二人の共通語をつくり、良い御家庭を築いてください。
最後は結婚式の祝辞で終わってしまいましたが、私が経験した「言葉の大切さ」について紹介をさせていただきました。やはり、相手の話を正しく理解するためには、相手の言葉(日本語の方言、英語、中国語など)を自分の言葉に置き換えて(翻訳して)理解するのではなく、相手の言葉で理解する必要があり、そのための努力をすることが重要ですね。何かの参考にして戴ければ幸甚です。