OBからのメッセージ No.17
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加藤 敏幸卒業年度:1969年(S44年)
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加藤 敏幸卒業年度:1969年(S44年)
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表題
- 銀杏と学生新聞記事
人生いろいろ、人さまざまである。平形橋を東から渡り、宗像神社へ向かう辺りには、左手に背の高い生け垣に囲まれた、うっそうとした広大な敷地があって、「きっと収容所に違いない」と幼い頃から勝手に思い込んでいた。
なぜそう思っていたのか理由はわからない。良くある「こども伝説」で、たぶん人口密度が低かったからであろう。
昭和39 年その建物の電気工学科へ、なにげなく入学した。先の見通しとか展望といったむつかしいものは持たずに、ただ「自分で稼いだ金で生きていく」ことがとりあえずの目標であった。
旧制新居浜工専から愛大工学部の時代の建物は平屋が多く、建物をつなぐ屋根付き通路が1m近い高さで、「これでは蛇も上って来れないだろう」と安心していた。まず蛇を見ることはなかったが、廊下が板張りの油引きのためか、靴のゴム底のスリ減りが尋常ではなかったのを覚えている。
また、実験室も上等な小屋作りで、コンクリートの打ちっぱなしの床に電動機があちこちに転がっていた。さらに、近くには機械工学科の実習工場があって、窓越しにみる旋盤にはすごい臨場感があり、とても羨ましかった。
そういったお気に入りの建物が順に取り壊され、本館と同じような、なんてことのない普通の校舎に変わっていったのである。風情の喪失は魂を貧血状態にするのではなかろうか。「旧制からの建物」というビンテージ感がなにかしら心地よかったのにと、いささかうらめしく思っていた。
「もう絶対にやらないから」と強く決めていたのに、気がつくと「中央委員」の選挙に手を挙げていた。生徒会ではない学生会だ、という解説にきっと動かされたに違いないと思っている。何をするのかよく分からない世界であった。だからなのか、一年生のくせにとは言われなかった。と云った辺りに自意識過剰が露見しているのだが、本人はいっこうに気づいていなかった。
学生会の仕事はあまりなかったが、それとは別に3年後だったか、四国高専体育祭が開催されることになり、油断していたら実行委員長にされてしまった。名前だけだったのだろうか、あまり覚えていないのである。
3 年生から、寮に移った。北側の校庭には銀杏がなん本かあり、秋には実をつけた。それを拾い集めたり、古傘を逆さに広げ、幹に飛び蹴りをしながら、バケツいっぱい採集し、東側を流れる用水路できれいに洗い、夜ごと電熱器で焼いたものであった。一人でやったのではない、仲間とともに過ごした楽しい時間であった。
新聞部(学生新聞)から5000字ほど依頼があったが、できが悪かったのか不都合だったのか、K主事から十カ所以上に渡り厳しい指導を受けた。
完敗であった。ほんとうに悔しくてその夜は眠れなかった。
何ヶ月かしてまた依頼がきた。「たたかいはつづいているのだ」と、要は傾向と対策である。また前回の経験もあって、イメージトレーニングを駆使しながら準備完了。2時間の指導(筆者にとっての論戦)を終え、部屋を出たとき同席の顧問がニヤリと笑っていった。「準備した?」
学生新聞の内容をめぐって、よくある学園ドラマのようなトラブルになったが、倫社担当の先生に聞きにいったら、「特別権力関係なので」と一言で終わった。すべては教育なのである。で、抵抗することはやめた。
K主事には学ぶところが多く、いまでも感謝している。あの二回の論戦はその後の筆者の人生におおいに役立ったと思っている。なにごとも真剣勝負でないと信頼は得られない、また真剣でないと本当の準備はできないのだとも。
5 年になったので寮をでた。いろいろあったし、技術者としては未達であったが、授業外で学んだことが多く、それは貴重であったし、しっかり身についたと思っている。そういう意味で、「良いスクール」であった。